旅 825 2018年のお盆(3) 久米路橋など

2018年のお盆(3) 久米路橋など

 昨年の9月には、県道86号線(戸隠篠ノ井線)で戸隠まで走り、その先を県道36号線で柏原(信濃町)まで来たが、こんどは県道36号線を走って帰ろうと考えた。

 県道36号線を走っていると路面が濡れていたので、戸隠では俄雨が降ったのかもしれない。途中まで車が多かったが、戸隠への坂を登り始める前までには、道沿いのお店に車が消えていった。

 山道に入ると一部ガードレールが黄色い部分があり、山口県の山道を走っていたときのことを思い出した。雪道では白いガードレールは目立たないのであろう。

 戸隠神社の奥社の前では、駐車場が満車で、長野方面から駐車場に入る車が片側車線をつぶしていて、渋滞が発生していて驚いた。こんな山の中で渋滞とは戸隠神社の人気も凄いものだ。今日は日曜日である。お盆や夏休みで戸隠を訪れる観光客で最盛期でなのであろう。こんな山の中でも駐車料金をとる。

 昨年の9月に戸隠を訪れたときには、宝光社、火之御子社、中社には参拝したが、奥社には寄らなかった。戸隠神社は奥社に行ってからブログにまとめようと考えているが、いつになることやら。奥社には若い頃の忘れられない思い出がある。

 県道36号線は宝光社の少し下を右折して鬼無里へ向かう。この道を走るのは初めてである。山の中を走った後、国道406号線(鬼無里街道)と交差する。その場所にあるのが、松厳寺や鬼無里神社である。いきなり鬼無里神社の横に出たので少しビックリした。

 ここから小川村までの県道36号線は走ったことがある。途中に高山寺などがある。

 小川村で県道31号線(大町街道)に出た。この道は長野冬季オリンピックの時、長野と白馬を結ぶメインルートとして整備され、それ以来交通量が増えた道だ。

 県道36号線は県道31号線(大町街道)と合流した後、また右折して南の信州新町へ向かう。そして国道19号線に合流して終わることになる。

 つまり県道36号線は犀川沿いの信州新町から鬼無里、戸隠を経由して柏原(信濃町)までを繋ぐ山間の地方道であるが、古代においては重要な道だったと考えられるのだ。そしてその先は北国街道で直江津に繋がる。

 県道36号線が国道19号線に合流する場所に奈津女橋があり、新町奈津女公園がある。

 この公園に雉を抱えた悲しそうな「お菊像」があり、「雉も鳴かずば」と刻まれている。

 これは、すぐ近くの久米路橋の伝説である。県歌「信濃の国」に、“心してゆけ久米路橋”と歌われた、あの久米路橋である。

 公園には「かあさんの歌」の歌碑もあった。

1 かあさんは夜なべをして 手ぶくろ編んでくれた

  こがらし吹いちゃ つめたかろうて せっせと編んだだよ

  故郷(ふるさと)の便りはとどく いろりの匂いがした

2 かあさんは麻糸つむぐ 一日つむぐ

  おとうは土間(どま)で 藁(わら)うち仕事 おまえもがんばれよ

  故郷の冬はさみしい せめてラジオ聞かせたい

3 かあさんのあかぎれ痛い 生味噌をすりこむ

  根雪もとけりゃ もうすぐ春だで 畑が待ってるよ

  小川のせせらぎが聞える なつかしさがしみとおる

 歌碑の裏に説明文があった。

『 「かあさんの歌」は人を思い、ふるさとを忍ぶ歌として広く親しまれ愛される名曲となっている。

 この歌を作詞・作曲された窪田聡氏は、両親が郷土信州新町の出身であることから、昭和19年母親と津和村尾崎にあった父親の実家に疎開し小学校三年、四年を津和小学校で過ごした。

 其の後、何度か尾崎を訪れている。聡氏はこの歌について「両親の大きな心、信州新町での生活のイメージを思い起こして作った歌が此のふるさとの歌だ」と云っている。

 信州の名曲として、くり返し紹介されてきた此の歌の背景を広く世に知らせ、信州新町に人、ふるさとを思いやる青少年教育の資にしたいと方々広く町内外多数の御賛同を得て此の歌碑を建立となったものである。

 平成元年四月 信州新町町長 歌碑建設委員会長 戸矢崎秀雄 書  』

 どうやら信州は貧しいが故郷としては恋しいところであるようだ。しかし、その故郷は信州から出た者の故郷であり、ずっと住んでいる人には山河の美しさは解るものの、その懐かしさと共に湧き上がる甘酸っぱい感傷は理解できないであろう。

 久米路橋は帰り道でもあるから渡る。いつもは通り過ぎる橋ではあるが、今回は写真を撮るために駐まった。携帯の電池残量も残り僅かである。

 久米路橋を渡る県道70号線(新町街道)は、信州新町篠ノ井や稲荷山を繋ぐ。更に古代においては県道36号線で日本海方面まで繋がっていたのかもしれない。

 その県道70号線の峠にあるのが氷ノ田で母の実家がある。私たちは通称の「原市場」と呼ぶ。昔、市が立った場所だったのだろう。

 久米路橋は、ここぞと云わんばかりの犀川の川幅の狭い場所に架かっている。

現地説明板より

『 長野市指定名勝 久米路峡  昭和40年6月26日指定

 久米路峡はおよそ420万年前、新生代第三紀鮮新世に活動した火山の噴出物と考えられる安山岩角礫からなる凝灰角礫岩で出来ている。この岩石は周囲の地層より硬く、隆起にともなう犀川の浸食の障害となり、峡谷となったものである。ここは犀川水系中流域で最も狭く、古来より何回か橋が架け替えられてきた。

 架橋の記録として現存する最古のものは、慶長16年(1611)の水内橋勧進帳であるが、この中にもこれ以前に橋が架けられていたことが伝えられている。

 名勝名橋として文人墨客が訪れ、古くは「信濃地名考」「信濃奇勝録」等多くの書籍に記載されている。明治32年、浅井洌もここを訪れ、県歌「信濃の国」に「心してゆけ久米路橋」と歌いこんでいる。

 水内発電所のダムの湛水のため、昔日の面影は薄れたが、両岸の切り立った岩壁に往時を偲ぶことができる。

 長野県教育委員会  』

 説明文に、「慶長16年(1611)の水内橋勧進帳」とあるように、この橋は「水内橋」と呼ばれた。それが江戸時代頃から「久米路橋」と言われるようになったのだという。

 犀川は久米路橋(水内橋)を過ぎた辺りから湾曲して流れる。この犀川の屈曲で三方を水に囲まれている場所に今でも「水内(みのち)」という地名がある。

 水内は「水の内」という意味で、水内郡の名の発祥の地はここであったという。周囲には上条、中条などの地名もある。地図で見ると水内温泉もあるようだ。

 水内郡が上水内郡下水内郡に分かれたのは明治12年(1879)で古いことではない。

 水内橋(久米路橋)は、上水内郡信州新町にある橋であるが、信州新町は平成22年(2010)に長野市に合併されて、上水内郡飯綱町信濃町、小川町を残すのみになった。

 私が走ってきた県道36号線は、信州新町信濃町(柏原)を繋ぎ、これらを含む地域はかつて上水内郡という行政区域であり、更に古代においては水内郡に含まれた。水内郡には善光寺戸隠神社があった。

 

 『日本書紀持統天皇5年(691年)8月23日条に、

「 使者を遣わして、竜田風神、信濃須波、水内等の神を祭らしむ」 とある。

 “信濃須波”とは諏訪大社であり、“水内等の神”とは善光寺に祀られていた水神と考えられている。

 竜田風神は、広瀬大忌神と共にこの年も例年のように4月と7月に祭られているにも関わらず、更に8月に信濃の諏訪の神、水内の神と共に3回目の祭祀が行われているのである。

 竜田風神はと広瀬大忌神は天武天皇が大和に創始した風神と水神である。持統天皇天武天皇の妃で、本格的に伊勢神宮を皇祖神天照大神として祀った人である。

 その持統天皇が691年に諏訪の神と水内の神を祀っているのである。水内の神は後に山に上がり戸隠神社として祀られた節がある。

 戸隠神社奥社の祭神は天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)で、アマテラスを天の岩戸から引きずり出した神である。戸隠の名は天の岩戸から名づけられた。

 長野市犀川及び千曲川以北、中野市千曲川以西、飯山市千曲川以西も水内郡であった。古代から水内郡には善光寺があることで有名だったようだ。そして水内の神は、どうやら大いなる水の女神であったようなのだ。

 水内橋がどうして江戸時代に久米路橋に改名されたのであろう。初期の大和朝廷の軍事氏族「久米部」に関わるのであれば、軍事的な匂いがする。

 確かに水内郡を支配するのに水内橋(久米路橋)は軍事的にも重要なポイントである。そして今の県道36号線や県道86号線は、水内郡を貫く幹線道路の一つであった可能性が高いのである。

 久米路橋は今では何の変哲もない橋だが、説明文に、「名勝名橋として文人墨客が訪れ、古くは「信濃地名考」「信濃奇勝録」等多くの書籍に記載されている。」とあるので、嘗ては猿橋のような橋であったのだろうか。

 他の説明板には次のようにあった。

『 久米路橋

 往古神仙降りて架橋したという橋は、犀川の両岸絶壁碧潭に架かる様から何時誰が言うともなく「久米路橋」と呼ばれてきました。すでに、江戸時代には松代藩領内第一の大橋にして名橋だった橋は、その形状が曲尺に似ていたことから「水内の曲橋」「撞木橋」とも言われています。そして、天下の名橋、奇橋として広く文人墨客が訪れる所となり、多くの詩歌に詠まれ、絵画に描かれてきたのです。 』

 この絵を見ると、国道19号線側の岸の部分が曲尺のように曲がっている。橋を架けた片方側に通路が無く、通路までの所に90度曲がった棧(かけはし)が構築されている。正に曲尺(かねじゃく)や撞木のような形であったようだ。

 このような橋の形にしないためには、川に向かって斜めに橋を架けなければならず、橋の長さが長くなってしまう。

 さて、「お菊像」に関わる伝説であるが、現地説明板に次のようにあった。

『 久米路橋の悲話から きじも鳴かずば……

 この伝説は久米路橋にまつわる悲しい伝説である。

 昔、村の百姓は一様に貧しい生活をしていた。貧農の一人娘お菊は病気になり、何も食べない日が続き、お父が「何か食いてえものはねえか」と聞くと、お菊は「あずきまんま(赤飯)が食いてえ」と言った。

 年貢をしぼり取られた貧農にはもち米や小豆の貯えはなく、明日の命もわからない娘の願いをかなえてやりたい親心は、ついに盗みを働いてしまった。

 地主の蔵から、もち米と小豆を盗み出し、赤飯を作ってお菊に食べさせたのである。

 お菊は食欲を取り戻し外に出て遊べるようになった。

「おら、うまいあずきまんま食ってるぞ」と一緒に遊ぶ子供に誇らし気に話した。

 この話が証拠となりお菊の父は捕らえられてしまったのである。

 昔の久米路橋は大雨のたびに橋が流されてしまい、神の怒りによって流されると信じた村人は、人柱をささげて鎮めようとし、捕らえられたお菊の父は久米路橋の架け替えの人柱として生き埋めにされたのである。

 父を失ったお菊は放心のあまり口をきかなくなってしまった。何年かあと、お菊の目の前できじが鳴き、その鳴き声がもとで猟師に打ち落とされたときお菊が一言だけ口をきいた「きじも鳴かずば撃たれないものを……」それっきりお菊はまたもとのおしになって一言も言わず悲しい毎日を過ごしたという。この悲しい親子の伝説は今でも親から子に語りつがれている。

 信濃町観光協会   』

 この伝説は地元の話なので、子どもの頃から何度か聞いたことがある。

 人柱は土手などの難工事でも立てられたようだ。つまるところ生贄である。神は命までも欲しがる。橋の工事での人柱が女性の場合は、橋姫伝説ともなる。

 黒姫もお菊の父も水の神への生贄であったのだろう。

 さて、橋を架ける技術は農民には持ち得ない。古代には橋を架ける技術集団(おそらく渡来系)がいたと考えられる。

 私は昨年の9月、橋詰氏のルーツを辿って、県道86号線(戸隠篠ノ井線)を旅し、郷愁にしたり「S.Hの郷愁 」にまとめたが、橋詰氏は橋を架ける技術集団の末裔であった可能性がある。後に橋詰氏の一部は秦氏について土佐に移り長宗我部氏の家臣になっている。また、残った橋詰氏は村上義清の家老としても重んじられた。

 

 『日本霊異記』(下巻第22)に信濃国小県郡跡目里の他田舎人蝦夷(えびす)の因果応報物語が載る。跡目は跡部氏に関わる跡部の転である。「部」が「目」に転じた例はいくつもある。

 奈良県生駒郡安堵村大字笠目は笠部、大和高田市大字勝目は勝部、当地の跡目は跡部から転じたという。

 『和名抄』の三河国谷部(はせべ)郷が橋目、相模国渭辺(あまべ)郷が沼目、陸前国余部(すべ)が余目に転じている。

 私は、「大井川 川会所」のブログで、次のようなことを書いた。

「 初代の川庄屋は橋爪助左衛門と塚本孫兵衛(如舟)の二人であったとされる。いずれも大井川に関係した在地の有力者だったと思われる。

 特に橋爪助左衛門は、“橋爪”の名字から、古くから川に深く関わってきた人ではないかと思う。

 更に私は「橋爪助左衛門」は「橋詰助左衛門」でもあったのではないかと考えている。

 名神高速道路の養老サービスエリアの場所は岐阜県養老郡養老町橋爪で、象鼻山南麓一帯を“橋爪”と云うが、橋爪は徳川時代の中期以前は“橋詰”と書かれていた。象鼻山南麓の古橋詰より栗原山にかけては伊勢街道が抜けていた。また、古代において秦の民が住んでいた場所だとも云われる。

 この地域で橋を架けるとすると揖斐川の支流の牧田川であろう。象鼻山の南5kmのところには「養老の滝」があり、北4kmのところには南宮大社がある。

 養老町の橋爪は古くは橋詰と書かれた。

 全国の橋爪姓はおよそ24,300人だという。それに対して橋詰姓はおよそ13,200人で少ない。出自は違うようだが、「橋」は国の内外を渡す要所を表すことから、橋爪と橋詰は一部では重なり、それは祖を渡来系とする氏族であるようだ。

 私が、「橋爪助左衛門」は「橋詰助左衛門」でもあったのではないかと考える根拠はここにある。あるいは橋詰(橋爪)氏は大井川の上流域を支配し、後に下流域へも進出した氏族の末裔ではないだろうか。 』

 橋詰はその名から察せられるが、橋や川と関係する氏族であろう。しかも、秦氏との関係が深いようだ。

 私の実家の近くには長谷寺があり長谷神社は私の氏神でもある。

 谷部(はせべ)と長谷部は同じであろう。私は谷部から橋目、更に橋詰に転じたのではないかと考えている。

 古代において犀川に架かる水内橋(久米路橋)の建造に関わったのも橋詰族だったような気がしてならない。そしてそこには残念なことではあるが人柱(生贄)伝説があり、後世の「お菊」に関わる人柱伝説として残ったのであろう。

 “お菊”という名は、とても貧しい百姓の娘の名ではない。私はある巫女の名だったのではないかと想像する。人柱はお菊の父ではなくお菊自身であったように思える。「菊」は橋姫であったのだろう。そしてそれは姨捨伝説に繋がる。

 「信濃の国」に、「流れ淀まずゆく水は 北に犀川千曲川 南に木曾川、天龍川 これ又、國の固めなり」とあるが、千曲川には大いなる水の女神がいることが今までの流域の調査から分かった。犀川にも犀竜の伝説だけでなく水の女神がいるようだ。

 天竜川はその名の如く諏訪湖を含めた龍神伝説がある。私が未踏なのは木曽川だけである。犀川木曽川は繋がる訳ではないが、国道19号線はこの2つの川に沿って走っている。

 私にとって木曽谷は伊那谷よりも感覚的に遠い存在であるが、今は同じ信濃国なのだから木曽谷についても少しずつ調べることで、新しい発見があるように感じている。

 久米路橋を渡った後、寄りたいところもあったが寄らず氷ノ田の叔父を訪ねた。叔父と長話したが、取り敢えず元気そうなので安心した。今日の夕食は姉の家に呼ばれている。

 家に帰り、シャワーを浴びて、姉の家に行ったのは6時半頃になっていた。冷えたビールが美味しかった。

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